「世界の主」 02.05.26
オバデヤ15〜21、ヨハネ黙示録11:15
その時、イスラエルの人々は、神様が世界をお作りになり、世の国々を治めて
おられることを知る必要がありました。
その時代の世界を支配していた大国によって、人々の置かれる状況は変わって
いきました。国が滅ぼされて外国に強制移住をさせられたかと思えば、支配国が
変わったことで今度はエルサレムへの帰還が許可されました。
人々は、大国に振り回される中で「世界を治めているのはその時の大国では
ないのか」と考えました。世界が主のものであることを疑い、見失いそうになって
いたのです。
エドムの国は、神よりもその時の大国を見つめました。その出方を伺いながら
うまくやっていました。世界を動かす大国に調子を合わせ、イスラエルのものを
うまく奪い取っていました。
エルサレムに戻り国を再建しようとしていた人々が、エドムを見ながら「力ある
ものに取り入っている方が得だ」と考えたとしてもおかしくありません。
今の時代にも、そのような思いへと誘う誘惑があります。
エドムは、それなりにうまくやって調子に乗りました。傲慢にも「誰が私を地に
ひきずりおろせるか」と言います。それに対して神さまは「世界を本当の意味で
治めている私が、引きおろす」とおっしゃるのです。
どんなにうまくやっていると思っていても、神さまの前での誠実さがない
ならば、結局は、<存在しなかった者のようになる>と神さまはおっしゃいます。
何も残らないのです。力ある国が世界を支配しているのではないからです。
「神さまの前で、どうなのか」が問題です。どんなにこの世のやり方でうまくやり取り
して得をしたとしても、神さまの前で築きあげてきたことでないなら、最後には
何も残らないのです。
人々が進んでいくためには、このことを確認する必要があったのです。
世界が主のものであることを知る私たちは、神さまの前にいる自分として考え、
語り、行うべきであります。そんな歩みを主は補ってくださいます